ふたつの100周年に向けて 2025年、パリ国際大学都市は創立100周年を迎えます。1925年に設立されたこの施設は、国際的な平和と交流を促進する目的で設立され、以来、世界中から集まる学生、研究者、芸術家たちに、学問と文化を共有する機会を提供し続けてきました。この記念すべき年に、特別なイベントや展覧会が予定されています。https://www.citescope.fr/ また、2029年に日本館(Maison du Japon)薩摩財団は、開館から100周年を迎えます。日本館は、長年にわたり日本と世界各国との学術・文化交流の架け橋として重要な役割を果たしてきました。パリ国際大学都市の中でもひときわ特色ある存在として、日本の伝統と現代性が共存するこの施設は、多くの留学生や研究者にとって第二の故郷となっています。この100周年を記念し、記念式典や文化イベントの開催が予定されています。 館長挨拶広島・長崎:80年の時を超えてパリ国際大学都市とは日本館の歴史薩摩治郎八ご支援のお願い 館長挨拶 「広島と長崎──80年の時を超えて──」について 本年、広島・長崎への原子爆弾投下から八十年の節目を迎えるにあたり、日本館は、パリ国際都市の100周年記念正式行事の一環として、アメリカ館と共同で、写真展「広島と長崎:80年の時を超えて」(Hiroshima et Nagasaki : Il y a 80 ans)を開催する運びとなりました。それとともに、 幾つかのイベントを予定しています。以下の通りです。 【プログラム】 2025年8月4日(月)〜9月5日(金) 月〜金 14時〜18時 原爆写真ポスター展(於・日本館) 2025年9月10日(水)〜10月9日(木)月〜金 14時〜18時 原爆写真ポスター展(於・米国館) 2025年9月12日(金)18時30分〜 被爆三世による講演会(平林千奈満と井上つぐみ、於・米国館) 2025年9月18日(木)18時30分〜 朗読劇『赤とんぼ』の上映会(レイコ・クルック西岡、於・カナダ館) 2025年10月9日(木)クロージング・コンサート(於・米国館)(以上のイベントについては、https://www.citescope.fr/evenement/hiroshima-et-nagasaki-il-y-a-80-ans-2/ にて登録受付中) 今後、イベントの詳細を変更をする場合があります。詳細が確定し次第、本ホームページの「お知らせ」欄にて更新情報をお届けしますので、ご確認下さい。 これらのイベントのよって、世界中から集まる様々な国籍の人々とともに、核兵器が人々の生活にもたらした惨禍と平和への思いを共有し、広島と長崎の「記憶」を次世代を担う若者に伝えたいと願っています。 私が館長に就任してから2年が過ぎました。今回のイベントは、自分の在任中、最も重要な行事として位置づけています。そのため、原爆をモティーフに創作したフランス語の歌も二つ作曲しました。去年作曲した大学都市100年記念(非公認)歌「The Cité’s Centenary Song」とともに、上記イベント(3~5)で折を見て歌う予定です。ご期待下さい。 2025.07.29日本館館長 金山直樹(慶應義塾大学名誉教授・弁護士・仲裁人(自称)シンガーソングライター) ブログ 日本館館長 ご来場の皆様。 8月は、私たち日本人にとって特別な月です。未曾有の悲惨な出来事があったからです。だからこそ、本日8月1日、フランスではバカンスの時期であるにもかかわらず、広島と長崎に関する展覧会を開幕することにしました。ご来場いただいた皆様には、日本館館長として心からお礼を申し上げます。この展覧会は、アメリカ館と共催するものです。アメリカ館のディヴァル館長には、この場にご列席を頂き、光栄に存じます。 80年前に投下された2発の原子爆弾によって、30万人以上の人々の命は奪われ、生き残った人々の人生は破壊され、打ち砕かれてしまいました。80年前といえば、今年100周年を迎えるパリ国際大学都市の創設から20年が経過した年です。 今回の展覧会は、広島と長崎の写真を展示することによって、核兵器の恐ろしさと非人道性を世界に訴え、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」という誓いを広めることを目標としています。広島と長崎は、原爆の惨状を示す、現在でも唯一の証拠だからです。 核兵器の使用、不使用を議論しようとすれば、人は必ず、そこに立ち返らざるを得ません。実際、核の悪に関するいかなる意見も、まず原爆投下によって引き起こされた被害を知ることから始める必要があります。その意味で、二つの街は「記憶の場」なのです。ここから核のタブーが生まれました。核のタブーは、広島と長崎の記憶の再現なのです。 原爆の投下によって、広島と長崎には、言語を絶する無惨な光景が広がりました。そこから衝撃、恐怖、怒りが走り、核のタブーが生まれたのです。核のタブーは、80年の間、核兵器を「単なる兵器の一つ」として見ることを阻んできました。80年の間、核兵器保有国による核兵器の使用を阻んできました。 けれども、世界の政治指導者や市民によって核のタブーが破られないという保証は、どこにもありません。今、必要なことは、80年の間、存在したこのタブーを、あらゆる手段を尽くして、できれば永久に維持し、さらに強化することです。核危機の時代を迎えて、私たちは人類の「記憶の場」である広島と長崎を改めて訪ねる必要があるのです。 実のところ、記憶とは、過去の出来事を単に記録することではなく、過去を現在と同様に蘇らせることです。言い換えれば、記憶の本質は過去を現在へと変容させることにあります。しかし、記憶は、自動的に世代から世代へと伝わるわけではありません。それは意志に基づく行為だからです。一方で語り手がいて、他方で聞き手がいて、初めて可能なのです。日本館での展覧会、そしてそれに続くアメリカ館での展覧会は、記憶承継の場になることを目標としています。 この目標を達成するため、展覧会と並行して、9月12日にはアメリカ館において、広島と長崎からそれぞれ被爆三世の証人を招いて、講演会を開催します。さらに、9月18日にはカナダ館において、パリ在住の長崎の証言者によるお話が加わります。 8月は、私たち日本人にとって特別な月です。広島と長崎は、世界全体にとっても特別ではないでしょうか。広島と長崎の記憶を承継することは、先ほど申し上げたように、意志に基づく行為です。私たちは、それに参加することも、忘れることも、自由です。しかし、私は言いたいです── I hope you’ll join us today And the world will be as one ご清聴、ありがとうございました。 2025.08.01 日本館館長 金山直樹 アメリカ館館長 在フランス日本国大使館・アメリカ合衆国大使館、パリ・イル=ド=フランス学区、パリ国際大学都市のご代表の皆さま、日本館、MEC、ハインリッヒ・ハイネ館の皆さま、そして親愛なる皆さま、本日、アメリカ財団を代表して、この記念行事の開幕を迎えることができ、心より光栄に存じます。 これは、日本館と私たちの財団との強い連携のもとに実現した、記憶と平和への道のりの始まりでもあります。この追悼の時は、ここ日本館での展覧会を皮切りに、9月からはアメリカ財団のギャラリーにて継続されます。 今年100周年を迎えるこのパリ国際大学都市が、国際的な交流、若者、文化、対話によって平和を築くという夢から生まれたことを、今改めて想起します。記憶を継承することは、平和という理想を信じ続けること。知と創造の光のもとに、平和は脆く、日々の行動と誓いによって守られるべきものなのです。 1945年8月6日、昭和20年。運命の日を語る言葉は、今もなお容易ではありません。広島、そして長崎に襲いかかった想像を絶する悲劇。大国日本は、炎と瓦礫の闇に沈み、未曾有の衝撃に打たれました。それは「ピカドン(光と音)」の時代でした。肉体にも精神にも深い傷を残した爆発の衝撃波は、今も人々の身体と心に息づいています。 歴史は語り継がれています。アメリカ人作家ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』は、その証言のひとつです。そして今、その孫であるアーティスト、キャノン・ハーシー氏が、日本人映像作家タク・ニシマエ氏とともに、「フューチャー・メモリー」という芸術的かつ市民的なプロジェクトで、その物語を新たに紡いでくれます。両氏は9月から10月にかけてアメリカ財団に滞在し、インスタレーション、パフォーマンス、象徴的なコンサート、ディスカッション、そして参加型のワークショップを通して、記憶、平和、そしてレジリエンスを探る活動を展開します。 この文化プログラムは、パリ国際大学都市100周年の一環であり、日本館と日本大使館、スイス館、カナダ館、ハインリッヒ・ハイネ館の皆さまのご支援によって実現します。痛みではなく、傾聴と和解、未来への責任を結ぶ「橋」なのです。この貴重な協力の機会をくださった日本館の皆さまに、心からの感謝を申し上げます。 この協働は、きっと始まりにすぎません。ともに歩みながら、私たちは記憶を尊び、より正しく、賢明で、人間らしい未来の種を、静かに、けれど確かに蒔いていきます。 最後に、心に刻みたい平和の願いをお伝えします。 平和への願い – Heiwa e no negai – 平和への祈りをこめて。 ありがとうございました。 2025.08.01 アメリカ館館長 ジョアン・アンフォッシ−ディヴァル パリ国際大学都市とは Cour d’honneur パリ南端第 14 区に位置するパリ国際大学都市(Cité Internationale Universitaire de Paris)は、1925年にフランスの文部大臣アンドレ・オノラ氏の提唱によって創設された、パリ大学をはじめとする首都圏の高等教育機関や研究機関に在籍する世界各国の学生や研究者に宿舎を提供し、あわせて文化・学術の交流を推進することを目的とした施設です。 パリ国際大学都市の本部建物には、図書館、劇場、室内プール、レストラン、銀行などの施設が設けられています。その本部建物を囲むように、広大な34ヘクタールの敷地内に47の建物が点在しています。これらは、いずれも学生や研究者のための宿舎です。各館は、大学都市本部が直接運営する直轄館のほか、各国の政府や財団、またはフランス国内の教育・研究機関が運営する非直轄館に分かれています。 日本館は、アメリカ館、スイス館、カナダ館、インド館、イタリア館、スペイン館などと並び、政府管掌の非直轄館の一つです。これらの外国館は、それぞれの国の特色を反映した独自の建築様式を誇っており、大学都市全体がパリの名所の一つとして知られています。 現在、パリ国際大学都市には、約12,000人の学生や研究者が居住しており、その出身国は150カ国以上にのぼります。各館は、自国出身の居住者を全体の70%以下に抑え、残りの定員を他国からの学生や研究者に開放することで、国際的な交流と異文化理解を促進しています。 2025年に100周年を迎えるにあたって、マスコミの製作にかかる動画が下記にアップされています。 興味のある方は、ご覧下さい。 Vidéo RFI : YouTube : https://www.youtube.com/watch?v=OmA2iMUX6gs Vidéo Neo : YouTube : https://www.youtube.com/watch/MnBayo9OexQ France culture : https://www.radiofrance.fr/franceculture/podcasts/l-info-culturelle-reportages-enquetes-analyses/la-fondation-deutsch-de-la-meurthe-ou-les-premieres-maisons-de-la-cite-internationale-universitaire-de-1925-5726338 日本館の歴史 日本館(Maison du Japon)の正式名称は「パリ国際大学都市日本館ー薩摩財団」といいます。 この名称は、1920年代後半、当時パリで文化活動を支援していた薩摩治郎八氏が、パリ国際大学都市の創設者オノラ氏のビジョンに共鳴し、私財350万フラン(当時)を投じて日本館を建設し、大学都市に寄贈したことに由来します。薩摩氏は、文化と平和に基づく未来の世界を共に夢見、若い世代のための交流と相互理解を促進する場の創設を支援しました。 日本館は、日本古来の城廓を模した地上7階・半地下1階の建物は、フランス人建築家ピエール・サルドゥーが設計したもので、1929年5月に当時のフランス大統領や藤田嗣治などの臨席のもとに竣工式が行われました。 日本館の周囲は1825平米におよぶ日本庭園が広がり、日本館の建物とあいまって大学都市の一隅に日本的な雰囲気を醸しだしています。大サロンと玄関廊下には藤田嗣治画伯の二幅の大きな油絵が掲げられており、大学都市屈指の芸術作品として高く評価されています。 日本館は、1953年5月に日仏両政府が交わした「日仏文化協定」に基づく日仏文化施設の一つとして、両国間の文化交流に大きく貢献してきました。現在も、学者・知識人による講演会やシンポジウム、展覧会、居住者の研究発表、音楽学生によるコンサートなど、多様な文化活動が活発に行われています。 これまで日本政府の援助を受け、日本館は、二度にわたり全面的な改修工事を実施してまいりました。しかし、時の経過とともに老朽化が進み、現在では再度、大規模な改修が求められています。 薩摩 治郎八 (1901年4月13日東京都生-1976年2月22日徳島県没) 東京日本橋で一代で綿織物・薩摩商店で巨万の富を築いた薩摩治兵衛の孫(2代目薩摩治兵衛の長男)として1901年に生まれ、第一次世界大戦後の1920年、渡英オックスフォード大学でギリシア演劇を学びつつ1922年にパリへ向かう。第二次世界大戦期を含む約三十年間をその地で過ごす。 1929年、西園寺公望公爵の要請を受け、私財を投じ国際大学都市に日本館・薩摩財団を創立した。同年5月10日の落成式典後には、現在の金額で一億円を投じた大晩餐会を主催、欧州社交界の度肝を抜き、レジオン・ドヌール勲章5等のシュバリエを既に得ていた次郎八は、28歳で4等のオフィシエを授賞するなど、以後日仏交流のキーパーソンとなる。 I. ダンカン、M. ラベル、H. マティス、M. ドラージュ、H. ジル=マルシェックス、P.モーラン、F. シュミット、A. ロラン=マニュエル、J.コクトー、藤原義江、藤田嗣治、岡鹿之助、堀口大学等々、治郎八が親交を重ね、また活動を支援した内外の芸術家は数知れない。 世界恐慌のあおりを受けて実家の薩摩商店が廃業したのちもパリにとどまり、芸術家のパトロンとして、また社交界の遊興に30年間で六百億円を蕩尽した。 戦後1951年に帰国してからは破天荒な人生と本場で培った芸術や社交の豊かな知識を生かして執筆や日仏交流へ貢献をつづけ、帰国後に結婚した婦人の故郷、徳島県で1976年に世を去った。 ご支援のお願い 日本館は、薩摩治郎八氏の多大なる寄付により1929年に開館されました。彼の寛大な支援は、パリ国際大学都市における日本と世界との交流の礎を築き、多くの学生や研究者がここで学び、友情を育む場となっています。 現在、日本館は開館100周年を見据えた大規模改修工事を計画しております。これからの時代にふさわしい安全性と機能性を備え、次世代の学びと交流の場としてその役割を果たし続けるためには、皆様からのご支援が不可欠です。 これからの100年に向け、日本館が引き続き国際的な学問と文化の交差点であり続けるために、皆様の温かなご支援を賜れましたら幸いです。 薩摩氏の志を引き継ぎ、私たちもまた、この歴史的施設を守り、未来に向けてその役割を広げていく責任を共有してまいりたいと考えています。 ご賛同いただけましたら、日本館の未来を共に築く一助として、皆様のご支援をぜひお寄せいただけますようお願い申し上げます。 寄付に関するお問い合わせは、administration [at] maisondujapon.orgまでご連絡ください。※[at]を@に置き換えてお送りください。